おいしさはやさしさ

旅行の日記とか独り言です

ヤングコーン記念日

人生で初めてヤングコーンを生で買って食べたので

五月六日はヤングコーン記念日(字余り)

剥いた

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茹でた

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食べた

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皮の剥き方が下手くそなのはご愛嬌。ワンオブ好きな野菜であるヤングコーンが道の駅で売られていたので、買って食べてみた。

調理は↓を参考にしました。

https://macaro-ni.jp/30037

 

思った以上にヒゲがすごくて、ヤングコーンがコーンの一種だとは知っていたけれどつい笑ってしまった。普段食べてるトウモロコシに比べて身が小さい分ヒゲのインパクトが際立つのかもしれない。

味は塩だけかけたり、マヨネーズで食べたりしましたが、なんとなく豆らしい味がして、普段好んで食べているヤングコーンとは少しギャップがあったのが面白かった。

次にまた生のヤングコーンを見かけることがあれば、今度は炙って食べてみたい。そんな10連休最終日でした。ごきげんよう

 

 

「働くことの哲学」を読んだ

2019年GWは働くことについて考えるのがテーマです。

「働くことの哲学」ラース・スヴェンセン を読んで、2点ほど印象に残る箇所があったのでメモ。

働くことの哲学

働くことの哲学

 

 

欲求による消費と欲望による消費

「暇と退屈の倫理学」で「浪費」と「消費」の違いについて述べられていて印象的だった。と前回書いたのですが、その後しみじみ「これはただの言葉遊びなのでは…?」ということを考えていました。そんななかでこの本の中で述べられていた「欲求による消費と欲望による消費」という対比に出会い、こちらの方がしっくりくるなと思い印象に残りました。欲求による消費(例:食欲)は、欲求が満たされれば満足するが、欲望による消費は永遠に終わることがない。

この表現を見て、ふと、「千と千尋の神隠し」に出てくるカオナシのことを思い出しました。以下は私の個人的な解釈なのですが、カオナシは一見、「センホシイ、センヲダセ」と、千尋という「欲望」を満たそうとしています。その欲望はなかなか満たされず、砂金で周りの人々(?)の欲望を刺激し、自らも豪華な食べ物や接待にあやかり欲望に飲み込まれていく。でも求めている千尋はなかなか得られずただエスカレートしていく。結局映画のストーリーの中ではカオナシ千尋が欲しいという「欲望」ではなく、本質的に求めていた、寂しさを埋めたいという「欲求」に気づき、満足して銭婆のもとで暮らしていくことを決めたように見えます。ただ、もしカオナシ千尋を手に入れたとしても、それは「欲望」なので満たされず、また他に何か心を埋めてくれる何かを探し続けていたのではないか?とも思えてきます。カオナシが自分の「欲望」ではなく「欲求」に気がつけたきっかけは何なのか、泥団子以外になにかある気もするのですが今の私には分からず…なんだったのでしょうか?

ただ、私自身もカオナシと同じように、欲求と欲望が正しく見えなくなることが時々あります。「お腹は空いているが、何を食べたいかわからない」という状態がまさにそれだと思っています。本来私という生命を維持するために欲求するべきなのは「空腹を満たす」という欲求だけなのに、「食べたいものを食べたい」という欲望にすり替わることで、いつまでも食べたいものを決められず、欲求を満たすことができない。(しかもこういうときは結局何を食べても「うーんこれなのか?」と思ってしまう)実家に住んで家族がご飯を作ってくれていた頃は経験したことがなかったこの欲求と欲望が入り交ざった感情に、当初はよく惑わされていましたが、最近は「とりあえず家にある食べ物を何か口に入れる」という対処法を覚えました。

 

消費では自己実現できないから仕事で自己実現を目指す

上記にあるように「欲望による消費」は永遠に満たされることはありません。かつて資本主義においては「人はものを消費して満足する」とされていましたが、欲望が続く限り、消費しても人は満足しない。その結果、人は「働くことで自己実現を目指すようになった」と本書では述べられています。それが現れているのが、最近の転職率の上昇だそうです。決して仕事への満足度が下がってきているわけではないのに、転職率は上がっており、その原因が「自己実現をするために、自分にあったよりよい環境を求めている」からである。本当にそんなにシンプルな話なのか?と少し疑問に思いつつ、でも自分の体感としては「たしかに…」という感覚もあります。私自身はそんなに消費熱心な人間ではないのですが、それでも仕事は「ここが本当に自分に一番あっている環境なのか?」という問いを自分に投げかけてしまうことは多く、その理由が「仕事を通じて自己実現をしようとしているから」と言われてしまったらそれは今の私には否めません。ここまで書いてふと思いましたが、千と千尋の神隠しは「ここで働かせてください」という物語でしたね…千尋のように、「ここで働く以外に生きる方法はない」という状態であれば「もっと他の仕事をしたほうが自分にとって良いのでは?」という不安を感じずに生きていけるはずなので、選択肢があるのは幸せなのか不幸せなのか、ふと立ち返ってしまいます。

サマリ

「働く」について、せっかくの10連休なので考えようと思ったものの、結局本を2冊読んであとは出かけたら終わってしまいました…人は定住で暮らす限り退屈を抱えてしまう、そしてその良い使い方を知らない庶民の私達は働いてその時間を充実した気分にせざるを得ない。その「働く」の奴隷になってはならないが、「働く」ことと消費活動は対称的なものではなく、混ざり合ってきているのが昨今の流れのようだ、というのが2019年に考えたことでした。

この本の面白かったところは、著者はノルウェーの人ですが、日本国内で言われるのと同じような懸念を示している箇所が多々あり、「日本では〜〜〜」と言われていることが日本だけではないということに気づけたところにもあります。もちろん程度の差はあると思いますが、今後の仕事・人生を考えていく上では、日本以外の人も同じ問題を抱えているはずなのでいろんなものの見方を取り入れられれたらいいな、など思いました。ごきげんよう

「暇と退屈の倫理学」を読んだ

随分昔に買って、半分ほど読んでそのまま放置してしまっている本がうちにはたくさんある。せっかくこのGWはどこにも出かけないことにした(!)ので、暇だな〜と思い少しずつ本を読んでいる。

昨日〜今日にかけて、「暇と退屈の倫理学」を読んでいた。結論にたどり着くための議論以外がちょくちょくあり、「この哲学者は自分の主張のために読み違いをしている/建設的な議論ができていない」という上から目線(?)が一般人の私には気になりましたが、あまり普段は哲学書というものを読まないのであまり文句は言わないことにします。

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

 

詳しい話は本を読んでもらえれば良いので、私が個人的に意外だと思い記憶に残った3ポイントについて覚書を残しておきます。

浪費と消費

日常的に使う用語としては、消費については可もなく不可もない用語、浪費はネガティブな意味を持つ単語というイメージがありますが、本書ではそれぞれ対象と意味合いが少し違って使われます。浪費は、「生活の必要最低限のもの以上に、それらを受け取ること」、つまり必要なものを使い、その程度が大きいことを指しています。例えば、人間の生命維持のために食事をすること、それをたくさん受け取る=たくさん食事をする、良いものを食べること、などです。食事は必要なものだし、過剰に行なっても人間の限界があるため一定を超えることはありません。

対して、消費という用語は、何かを使用したり受け取ることではなく、その概念を指します。例えば、食事をするにしても「最近流行りの」「ミシュラン星付きの」食事をすること等を消費と定義してします。浪費が上限を持つのに対し、消費は天井がありません。社会やステータスが作る概念には終わりがなく、消費を続ける限り、それらを追いかける必要があります。「足るを知る」は消費の中では起こりえません。

過去は「需要と供給」といえば、人が本当にほしいものが「需要」でしたが、消費という概念がうまれ、「人にほしがらせる」という仕組みに則って今の経済が回っていると言えます。今まで「浪費」はあくまで「消費」の行き過ぎた形だと思っていましたが、そもそも受け取っている価値がそれぞれで異なるという発想が今までありませんでした。SNSをしていると、他人の動向が気になる、旅行に行ったり美味しいものを食べているのを見てしまい羨ましくなり嫉妬する、という受け取り方をする人がいるとネット上の記事で見ることがあります。私の周りではそのような感想を述べている人はいないし、自分も特にそういった感情を抱くことはなかったのですが、もしかするとこの「消費」という価値観の捉え方がその分岐点なのかもしれない。

複数の環世界を行き来できるからこそ、退屈する

本書では、「環世界」という用語が出てきます。哲学的用語らしいのですが、日常の感覚に照らし合わせると「会社や学校にいるときの私」「家族と向き合っているときの私」「趣味の世界にいる私」がそれぞれキャラクター・日常で意識する点が異なることを指しています。人間がこのように複数の環世界を持っているのに対し、動物は比較的固定された環世界を持っているというのが、人間と動物の違いといえます。詳しい例は本文にダニの生活や、盲導犬の育成について書いてあるのでそちらに譲りますが、人間は複数の環世界を持ち、行き来が容易にできてしまうからこそ退屈する、と本書では述べられています。複数の環世界を持つということは、すなわち興味の対象が一定ではないということを指します。一つの環世界しか持たず、一つの対象にのみ集中していれば良い、というのであればそれに全て意識を集中させれば良いのですが、それが揺れ動いてしまうが故に退屈するのです。一つのものだけに意識を向け続けることが難しく、その意識の持って行く先がないからこそ退屈する。環世界を複数持っていることは一見幸せなのに、実は退屈の原因となるのは、すごく逆説的に思えます。

退屈は、感情ではなく心理的状態

このトピックは本文ではなく新版付録に書かれていたのですが、「そもそも退屈とは何なのか?」という話。人間はふと「なんとなく退屈だ」と思うので、それがあくまで感情のように思えますが、実は退屈とは感情ではなく心理状態だと筆者は述べています。また、暇が現れたときに「退屈だと思う人」「退屈だと思わない人」がおり、その違いは、そこまでに経験してきた様々な経験の積み重ねにある。「退屈」というのは、「何らかの不快から逃げたいのに逃げられない」という心理的状態を表していると述べられています。退屈がなぜ辛いかというと、退屈になった途端、心に溜まっていた不安を無視することができなくなり、考えざるを得なくなるから。

その気持ちは少しわかるような分からないような気がします。昔読んだWeb上の記事で、「日本人は連休を過ごすのが下手」というのがありました。個人的には、自分の連休の過ごし方について他人にケチをつけられる必要があるとは思えないのですが、その記事曰く、日本人は「連休があると旅行に行く or 寝る or 家事をする」くらいしかすることがないそうです。逆に他にどういう選択肢があるというのか。休んでいても文句をいわれ、旅行に行ったら「日本人は忙しない旅行しかできない」と言われ、なんだかどうしようもない気持ちになりますが、そうやって他人の過ごし方に口を突っ込まないといけないくらい、自分の心と向き合うのが怖いのかな…なんて思ってしまいました。

 

そんなこんなで、面白い本だったのでGWに「暇」で「退屈」している人がいればぜひ読んでみてください。ごきげんよう

 

 

2019年2月の日記

徒然なるままに書きます。

本を読んでいる

最近、「いつでもこの家を出られるようになりたい」という思いが強く、メルカリで不要なものを売るのにハマっている。めちゃめちゃ家に本があるので、少しずつ本を売っており、その一環でそもそもまだ読んでいない本を読まねば…と積ん読を読み進めています。向田邦子「女の人差し指」、星野道夫旅をする木」、吉田篤弘「レインコートを着た犬」など、短編集を粛々と読んでます。途中まで読んでいたものもあるし、そもそもほぼ読んでいなかったものもあるし、読んだはずなのに記憶がないものもあります。どの本も、一度はうちに迎え入れたのに手放すのが少し寂しい気もしますが、もっとかわいがってもらえる場所に行けるならそれがモノの人生(?)としては本望なのだろうと思って気持ちを押し切ってます。なおこれを「授かり効果」というらしい。こんまりブームがアメリカに来ているとかなんとか、都会に暮らすと日頃刺激が多い分、家の中はすっきりさせたくなるよね…

メルカリ経済圏を思い知っている

ということでメルカリ売上金がちょくちょくたまり、それを使ってメルカリ内で買い物をする…というメルカリ経済圏にハマっています。いままではアマゾンで中古の本を探して買っていましたが、今はまずメルカリを探してしまう。あと、Kindleは手軽だし本を安く手に入れらるというメリットを感じていたのですが、「売ったあとにそれを売れる」ということをメリットだとすると、本をモノとして買うことが増えたような感覚があります。メルカリに限らず、モノを買ったときに「いつか売るかもしれない」と箱を極力おいておいたり、買ったものはどうせ売れる、という考えで高値で買ってもそのまま高値で売ることができるとなると購買体験が少しずつ変わっていくような気がします。資本主義の社会でもまだまだ変化はあるのか…など思ってしまって面白い。

毎年2月あたりはブログの投稿数が増えていて我ながら興味深い現象ですね。寒さで家に引きこもる反動なのだろうか。などなど思いながら春を待望しております、ごきげんよう

スペイン・モロッコ旅行⑤グエル公園

今回の旅行では「本場のクリスマスを楽しむぞ!!」と思ったものの、本場のクリスマスは家族で過ごす日ということでクリスマスはどこもあいてない&私に残されたバルセロナ滞在はあと2日=駆け足で1日中観光していました。あとでiPhone歩数計を確認したところ、1日で37,000歩歩いていたようです。そりゃ疲れるわけだ…

Day3

グエル公園→カサ・ビセンス→ボケリア市場→サグラダファミリア→グラシア通り→ゴシック地域→サクラダファミリア

グエル公園

グエル公園は事前に入場チケットがオンライン購入できます&人気観光地なので事前購入がおすすめです。(予約はこちらから)今回わたしは前日に予約しましたが、チケットが売り切れている様子はなく普通に購入できました。予約の混雑状況をホームページで確認できるのですが、日中はかなり混んでいるようです。

グエル公園は無料入場時間があり、早朝であれば無料で入れるそうです。ただ、バルセロナは冬の日の出が遅く、だいたい8時半ごろやっと街が明るくなってきます。グエル公園の開演時間は8時半なので、それよりも前に市内から離れた公園に行くのは寒さもあってあまりおすすめしません…

グエル公園自体はバルセロナの端にあり(だから住宅地としては売れずに公園となったわけですが…)、カタルーニャ広場からはメトロで向かいます。こちらの記事を参考に、私はLesseps駅から徒歩で公園に向かいました。

宿は朝ごはんがついていなかったので、駅から公園の道中にあるカフェで朝ごはんを食べました。

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朝ごはん。カフェ・コン・レチェ イ クロワッサン デビュー!

その後、GoogleMapに従って公園に向かったところ公園のゴルゴタの丘側から入ることになりました。高台にあるだけあって、朝日を浴びるバルセロナはとてもきれいでした。

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ゴルゴタの丘

入場時間になったため有料エリアに向かったところ、最短ルートは工事中で使えず遠回りすることになり焦りました(;;)公園で犬を散歩させる地元の方々とすれ違いつつ、テラス側から入場しました。

入場の際は、ネットで予約すると送られてくるQRコードスマホ画面で係員の人に見せるだけでOKです。

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朝日を浴びるバルセロナ

グエル公園の景色を見て私が思い出す幼少期の思い出があります。関西で生まれ育った私は、時々家族で遊びに行ったり小学校の遠足で行った「キッズプラザ大阪」という施設が大好きで、そこに通ったおかげで今の科学への興味だとかが養われたと思っています。その中にある吹き抜けの公園エリアが「グエル公園に似ている」と聞いたことがあり、ここに来ることをずっと楽しみにしていました。普段はこんな思い出を思い出すこともないのですが、グエル公園に行くことを決めてから、当時の楽しかった思い出が意識にのぼり、一人でずっとワクワクしていました。

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映える(バエル)公園

実際に訪れたグエル公園はどこをとってもカラフルで、タイルも乱雑なようですごく計算されて割り貼られた様子が見られてわざわざ暗い中を登ってきたかいがありました・・・! メインゲート入ってすぐの門番の小屋が可愛くてときめいていました。すごく可愛い建物なのに、中で「The Failure of Park Guel」なんて映像を放映していて笑ってしまった。今回訪問したタイミング(2018年12月末)は工事真っ最中でテラスが半分しか空いていなかったのが少し残念。またリベンジしたいです。

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公園のマークからかわいい

グエル公園を満喫したあとはそのまま坂を下り、バスに乗ってカサ・ビセンスへ。次回に続く。

 

 

季節の移り変わりを花で感じたい

子供の頃はニュータウンに住んでおり、家の裏に山があったので季節を自然で感じる機会が多かった。土日の夕方に意味もなく父親と弟の3人で散歩に行ったのをふと思い出す。春になるとノアザミで手を切り痛い思いをして、夏になれば庭にはびこるツルニチニチソウをちぎっては手が痒くなり、秋になったらススキの花を見て、冬は全ての植物が茶色くなるのを見て季節を感じていた。

親が比較的植物好きだったこともあり、当時住んでいた一軒家の庭にもいろんな植物があった。白梅、紅梅、桜、紫陽花、柊(庭に勝手にオシロイバナのタネを撒き散らして花壇の一区画をオシロイバナまみれにしたこともあった)。冬になるとサボテンなどの多肉植物を屋内に避難させるので、一緒に部屋に入ってきたカメムシが靴の中に入ってしまい匂いに悶えた日も少なくなかった。

一軒家から引っ越してマンション暮らしになっても、母が食用植物を育てたりするなど近くに植物はあったが、以前より花を目にすることはなくなった。東京で一人暮らしを始めると、生活圏内では街路樹以外に植物を目にする機会はなくなった。会社勤めをはじめてから、太陽が沈むのを目で見る機会も少なくなった。

幼少期の自分が当たり前に感じていた季節の変化を、暑さ寒さとカレンダーの数字でしか感じられなくなる、そんな暮らしのギャップが怖くて、少しでも自然に近づこうと、花屋を見かけたら花を買うことを社会人1年目は心がけていた。でも、花を買ったらあとはほったらかし、気がつけば花がしおれて花瓶の水が濁っているので生ゴミと一緒にポイ。花を選ぶ時もとりあえず「季節の花束」を買っていた。花に向ける心の余裕もなくなり、いつしか花屋があっても花を買わなくなってしまっていた。

2019年、生活を大切にしようと一念発起して早く家に帰るように心がけている。早く家に帰ると、家に滞在する時間が長くなり、空間を快適なモノにしたいという欲が生まれる。その思いで花屋を目にすると一輪挿しの花があるのに気がついた。好きな匂いの花にしてみよう、と匂いを嗅いで選んだのはスイートピー。ちょっとくどいキャンディーのような甘い匂い。ほのかなピンクと紫、青のグラデーションの花を連れて帰った。定期的に水を変えてあげると2週間ほど花は咲き続けてくれて、ちゃんとお世話することに意味を見出せるようになった。

今日も晩ご飯の材料を買いに出かけたついでに花屋を見かけたので花を買った。ヒヤシンスと椿を天秤にかけ、この冬一番くらいの寒い日に買うなら椿、と思い連れ帰ってきた。茶道部の頃は「少し先の季節の花を先取りするのが粋」と聞いた気もするけれど、わたしは今を感じて生きていきたいので寒い日には寒さを感じられるものを。うちには椿のしっかりした木を支えられる花瓶はなかったので、ちょっと前までチャイキャンディーが入っていたどっしりしたガラス容器を花瓶がわりにしてもらっています。たくさん蕾がついているので、ちゃんと全部花開くといいな。そんな土曜日です。ごきげんよう

 

Odai「今日の花」

暖かくなったらしたいこと

寒くて今週は全然元気が出ない…

暖かくなったら、意味もなく公園散歩して、

スプリングコートと新しい靴で街を歩いて

庭園美術館に行ったりなんかして

ちょっと肌寒いのに外飲みしちゃったりして

春らしい野菜と果物、スイーツを食べて楽しく生きたいんだ〜

 

あと1ヶ月冬を乗り切るのだ、そんなこんなでごきげんよう