おいしさはやさしさ

旅行の日記とか独り言です

「子どもに伝える美術解剖学」を読んだ

暑いので部屋で涼んで本を読む日々です。

https://www.amazon.co.jp/子どもに伝える美術解剖学-目と脳をみがく絵画教室-ちくま文庫-布施-英利/dp/448043190X

昔、21_21DesignSightで開催されていた「デザインの解剖学」展でスーベニアショップにある本が興味深くて買い漁ったのであった。

当時読んで面白かった記憶のある本を、断捨離に際して読み直したら面白かったのでメモ。

・良いスケッチは、生きているスケッチ

本の前半部では、筆者が母校の小学校で美術教室をしたときの経験が書かれている。はじめに子どもたちが描いた魚は死んでいたが、魚釣りや解剖を経てから魚の絵を描くと絵がイキイキしたものになるという。その経験って絵に限った話ではないと思うけど、なにがその違いをうむのか興味深い。例えば何かアイデアを考えるにしても、教科書的にスマートにたどり着いた結論と、泥臭くたどり着いた結論とでは後者の方が「面白い」ことが多い。この違いって具体的にはなんなんだろう?具体的な話が出てくるから面白く感じられるのか?それとも、プロセスにおいて掴むべきポイントが正しくつかめるからなのか?(今は答えが出なさそうなので未来の自分向け備忘)

・名画に見るスケッチ

本の後半では、レオナルドダヴィンチ、ゴッホセザンヌピカソといった有名画家の描く絵がどのような芸術的要素で構成されているか、解説されている。久しぶりに本を読み返してみて、当時読んだ時に比べて実際の彼らの絵がイメージできるようになったからかすごく解説がすんなり頭に入ってきた。イタリアに旅行に行って、ルネサンスとか西洋絵画に興味が出て、色々本を読み漁ったり美術館に行って絵を見たのが頭の中で繋がってきた感覚がある。モネの絵は確かに光を見て描いているし、セザンヌの絵は確かにモノの質感を描いている。ピカソの絵は意図的に多面的な観点を描いているのが斬新なのであって、それは子供が適当に描いた絵とは違う意味を持つのだ、ということ。正しく私の興味範囲をいうと、西洋絵画に興味があるというよりは西洋絵画がたどってきた発展プロセスが気になるのであって、一枚一枚の絵画ではなく、どういう状況下でどのように発表された絵がどのように世の中に衝撃を与えたのか?ということを知識を元に追体験することが面白い。

先日、大塚美術館に人と行く機会があって、まだ空いているうちにゲルニカの再現画を眺めていた。小学生の時に図鑑で絵を見たときは、「白黒の不思議な絵」としか思えなかったけど、原田マハの「暗幕のゲルニカ」を読んで、スペイン内戦後のバルセロナを描いた「風の影」を読んで、内戦についてはルワンダに旅行に行ったり当時の情報を見聞きして、戦争については「この世界の片隅に」の映画を見て、モロッコからはるばるたどり着いたマドリッドでソフィア王妃美術センターにあるピカソの下書きや内戦当時の映像、その後ろに壁一面にあるゲルニカの絵を見ると、こうやって芸術を通してメッセージを伝えようとしたピカソの気持ちを想像したり、内戦で空爆された街にいた人たちの恐怖を想像するようになったオトナのわたしにはすごくいろんな気持ちが心を駆け巡る絵の裏に見えるようになっていた。そんなことを考えながら大塚美術館でぼんやりしていたら、同行者から「ゲルニカってなんか落書きみたいなよく分からん絵やな」と言われた。それを聞いて「どうしてそんなことを言えてしまうのか?」と疑問がよぎったけど、ただ背景を分からなかったり、キュビズムの絵に馴染んでいないだけなんだろう。わたしも絵を見てるのではなく絵の裏を想像しているだけで、本当の絵を見られていないのかもしれない、と自分のモノの見方を見つめなおす問いだと思った。それでも知りたがりのわたしはずっと絵について背景や技法の知識を仕入れたがるんだろう、それがわたしにとっての絵の見方になっていくんだろうな、というのが今の結論です。

途中から意図せず本とは関係ない話をしてしまった。そんな感じです。ごきげんよう