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おいしさはやさしさ

社会人になりました

自分が主人公なのは自分の人生だけ

思えば、わたしが自我に目覚めたのは幼稚園年長のときでした。

友人がハチにさされ職員室で手当を受けているときに、集まる野次馬に立ちはだかり「○○ちゃん、寝てるんやからやめてあげて!」と関西弁で叫んだあの瞬間に、世界がぐるっと回ったのを思い出します(これをわたしは小宇宙版コペルニクス的展開であると唱えています)。なぜその瞬間に自我が目覚めたのかは分からないし、ただの「ちょっと男子〜!」系女子でしかないんじゃないか…という恥ずかしさも拭えません。
内面的な気づきに伴い、外面的にも変化を迎えました。このときを境に、関西で生まれ育ち親もバリバリ関西弁なのになぜか標準語を喋っていたわたしが、急に関西弁を喋りはじめ至る20云年。

 

最近は卒論のためのデータ集めとして毎日実験に追われているのですが、そのなかで2度目のコペルニクス的展開を迎えました。新たに気づいたこととはタイトルのとおり、「自分が主人公の人生を送っているのは自分だけである」ということ、もっといえば「他人は他人で、その人自身が主人公である人生を送っている」ということです。

実験で失敗してしまった。絶望するのは自分だけで、他人は本人の実験が上手く進めばそんなことなんでもない。

朝早く来ても全然帰れない。それで辛いのは自分だけで、他人は「朝早いな」「まだ頑張ってるな」くらいにしか思っていない。

研究室を出られず次の予定に遅れてしまう。それで申し訳ないのは自分だけで、他人は「遅いな」「早く来ないかな」とくらいに思っている。

上にあげたのは最近の私の目から見た世界ですが、逆もまた然り。
他人が絶望していたり、辛いと思っていたり、遅刻に焦っているのも「大変そうだな」で片付けてしまう。

それが良くないとか悪いとかそういうのではなくて、人間はそれぞれが自分の人生を生きているんだから仕方ない。23年間生きてきて、やっと当たり前の事実に気がつけた気がします。
こうやって気がつけたことを忘れないようにして、他人の人生をもっと尊重していきたい。何かを一緒にするにしても、会話をするときにしても、相手には相手の人生とその文脈があり、自分はそこに出てくる脇役でしかない。逆に、自分の人生を生きていくのは自分しかいないんだから、他人に振り回されずちゃんと決断を積み重ねていきたい。

 

そんなことを思った12月上旬です。急に寒くなってきましたね。