この土日、あまりに天気が良かったので遠出しました。
関西から鎌倉って若干行きづらくて、せっかく東京に住んでいるんだから今のうちに、と思って海沿いをぶらぶら。
したら、月曜朝起きたら足首が痛むこと痛むこと…
日頃、運動しない人が急に出歩くとやりがち、らしいのですがアキレス腱を痛めました(思えば高校生のときにもやらかしたんだった)。家の中の移動すら厳しかったので、往復合わせて1時間程度かかる会社への出勤は断念…気持ちと頭は元気なのに、移動手段がないせいで有休を使って引きこもって勉強をしています。
そんな私は星野源にかなり共感してしまうくらい、「生活」が苦手らしくいろいろやらかします。
思えば幼稚園の頃から毎日ハンカチ・ティッシュを忘れ続けたり(登園日のうちトータル5日くらいしか持っていってないと思う)、小学生になっても、大事な書類をカバンに入れっぱなしにしてしまったり(期限日に周りの子たちが紙を持っているのを見て存在を思い出す)、最近も光熱費の支払いを忘れて口座が空っぽだったり…
このままじゃいかんな、と一念発起し、後回しにし続けた(玄関にハガキを置きっぱなしにしていた)自動車運転免許の更新に行ってきました。足が痛いのでは、という自問自答は、徒歩圏内ならば出勤するより俄然負担が少ないはず、という気持ちのもと乗り越えまして。人生2回目の更新にして、ついにゴールド免許を手に入れました。そそっかしい私がなんでゴールドかって、ペーパー免許だからに違いありません。最後にハンドルを握ったのは2年前に実家の車で運転したとき…?記憶があやふやなくらい運転をしていない。まあいまや東京で生活してるからね。(※補足:実家に帰っても、私にだけはみんなハンドル渡してくれない)
そんなだから講習で久しぶりに運転手席からの景色を見たのだけど、本当に車って乗りこなすのが難しい乗り物だな。住宅街とか運転していたら、そりゃ急ブレーキ踏むことなんて結構な頻度であるんじゃなかろうか。と思ってこの記事を思い出していた。
まあ、この「思いやり」のおかげで残っている仕事や救われている人もいるのかもしれないけど。とはいえ住宅街での運転は、自動運転でなくとも私はしたくない。中途半端に守るからうまくいかないのかなぁ、なんてもやっとした気持ち。まあ、私が次に免許を更新する頃、5年後には自動運転とか発達してくれてほしいな。免許の更新という概念すらなくなってほしいな。なんて言ったら車好きの人に怒られそうだけど。車という存在が困るわけではなく、あのでっかいスピードの出る操作の難しい機械を、ただでさえ運動神経の悪い私が操作しなきゃいけないのが辛いよ。
最近久しぶりにこの本を読み返しているのだけど、インターネットの影響が大きいと言われるのは、インターネットという通信形体じゃなくて、インターネットによって人々の生活形式が変わることなんだと。まるで自動車の出現によって、モータリゼーションという変化が起こり、人々の暮らしが変わったように。それこそ、車を通すためのだだっ広い道ができたり、車で出かけるという新しい余興が生まれたり。いつか自動運転社会がやってくるんじゃないかな、と思いながら、モータリゼーションの次に何が変わることになるだろう、とぼんやり考えていた。きっと、地道と高速という区分は変わるだろうし、信号というものはなくなるだろうし、バスとタクシーは概念が混ざってUberの乗り合い版みたいな存在ができるんだろう。車の所持という概念も変わるかもしれない。免許がなくても車が使えるようになるから、子どもや高齢者が車にアクセスしやすくなるだろう。ただ燃料のガソリンは買わなきゃいけないから、そこの経済はしばらく持続するんだろうな。っていう何が実現するかしないか分かんない戯言みたいなことを言ってみます。
が、この考え方も結局上で上げた人たちの考え方をちょっとずつ借りたものなので、今日考えていることは下記Tweetに集約されます。
「自分の頭で考える」のは大切だけど、各々の判断を「これは自分の頭で考えた!」ってみんな本当に自信を持っていえるのかな。自分の頭で考えたとまわりの環境から思わされているだけ、という可能性は考慮しないのかな。私は「自分の頭」と「他人の頭」の境目でいつも戸惑っている。
— チェコ好き (@aniram_czech) 2017年2月24日
ということで、有休な一日、残りも楽しみましょう。なーんて。