おいしさはやさしさ

旅行の日記とか独り言です

眠すぎて何も考えられないはなし

水曜だというのにとても眠い。原因はわかっている。昨日の寝不足。

独り暮らしをはじめてから、自分に無理がきかなくなった。今まで「自分は朝に弱い」と思っていたけど、全然そんなことなくてただ寝不足なだけだった。ご飯を食べたくてもご飯を作らないといけないことを知った。部屋は勝手に片付かないから、自分で片付けないといけないことを知った。寒い時は暖房をかけないと力は出ないし、暑い時はクーラーをかけないとうだってしまうことも知った。自分から動かないと、一日しゃべらないで過ごすことだってありえると知った。悲しい気持ちになったとき、自分ひとりで気持ちを晴らすことって簡単じゃないと知った。楽しいことがあっても、一人で独り占めしちゃうのってもったいないって知った。お金さえあればとりあえず生きることはできるのかもしれない、って思った。人が一人で生きるのは良くない、って昔神様がいったとかなんとか。お互い手探りだったメンバーたちが、やっとチームという形になって面白くなってきたと思っていたのに、そこに穴があいてしまうのってさみしいなあと思っている。穴はしばらく穴として存在するけど、ずっとあるわけじゃなくてそのうち何かが穴をうめてしまう。それがうれしいこともあるけど、かなしいときもあり、きっと無我夢中で過ごした日々をふと振り返るとそんなことになっちゃってるんだろうな、って思ってとっても眠いなう。

ほぼ日刊イトイ新聞 - ヤオモテ、OK

気がつけば2月もラストスパートだぞ。おやすみなさい。

限界が来ても、別の世界を持っていること

2月という中途半端な時期だけど、今週末は3連休にして一人旅をするぞ、と企てている。3連休って、海外旅行には短いし国内旅行かな〜と思ったのでまったり構えていたのだけど、宿やら交通手段やら、そもそもの下準備やらに時間を割けていなくて今さら焦っています。でもこうやって普段と違うことを考えられる時間があると、意外とそっちに集中力を切り替えられて頭がすっきりすることに気が付きました。気がつけばガイドブックとか見ないでインターネットを頼りに旅行をするようになっているのですが、海外旅行に比べて国内旅行って情報が手に入らなさすぎて歯がゆいですね。海外の情報はかっこいいからブログに書きたくなるし、言語の壁があるからある程度なんでも書けるけど、国内ってそうもいかないんだろうな…などなど思っています。いつもそんなブログたちに助けられて旅行をしているタイプなので、今回の旅行が終わったら私も情報をまとめて発信しても良いかな。

話は変わりまして、こちらを読みまして。

note.mu

私も比較的「消えてしまう人」だったので、この話を見ながらいろいろと思い出してしまう記憶がある。「誘われたことは断らない」「やらないよりやってみる」をモットーにしばらく生きていた結果、自分がそこまでやりたくないことに首を突っ込んでみたり、誘ってもらって入ったチームに期待されることに自分が応えきれずやめてしまったり。今の自分も、身の回りの環境や自分にかかっている負荷をちゃんと測れているといえないので、また急に限度を越えて消えてしまうこともあるかもしれない。とも思いつつ、そういうときの自分を振り返って状況を言語化すると「つらいと思っているんだけど、そのつらさを言語化できず、その思いを他人に共有することができず、吐き出し先がなくなった結果、存在を消すという選択肢しかないように思える」という感覚のように思います。辛いと思っていても、その辛さを何かしらの形で発散してしまえば、その辛さからは一旦気をそらすことができる。辛い環境にあるとわかっていれば、逆に辛くない環境ってどこにあるのか、を考えることもできる。

でも、それが叶わないときに待っているのは、辛さを覆い隠し日々を過ごした結果、思いのやり場がなく全てを放り出してしまうこと。「消えない」人はきっと消えないで済む方法を知っているから消えずに今までこれているし、なんでそんな行動を取ってしまうのか意味がわからないんだと思う。私も正直自分が元気なときは全然共感できない。元気じゃないときは、しょっちゅう消えたい気持ちになっている。そんな気持ちになるけど、その「消えた」あとに待っている世界は逆にじわじわと厳しくて、存在を消した先のコミュニティに踏み入れることはとても難しくて、そんな選択をとってしまった過去の自分に後悔を抱えてしまう。この悔しさを知ってから、「やらない後悔よりやる後悔」というモットーはそのまま、でも「辛いと思ったらちゃんと辛いって言う」を新しくルールに足して今のところ数年間過ごしています。辛かったら「つらい〜〜〜」って叫ぶ。職場でも冗談ぽく叫びまわっている。迷惑な新人である。笑

今回旅行の準備をしながら、私にとっての旅行は「今の自分からの逃避」であるものの、一つの「限界」の外にある世界なのかもしれない、と思いました。そういう意味で、世界を同時並行で複数持っていることって大切なのかもしれない。ひとつの世界(例えば仕事)で限界を迎えていても、もうひとつ(例えば旅行。誰かにとっては家庭。副業先や趣味の世界もあるかもしれない)でも同時に限界を迎えることは確率として低くて、そうやって自分のバランスを保つことに意識的であることもひとつの今後をうまく生きる手段かもしれない。っていうことを、学生時代に社会人の先輩から聞いたなあとふと思い出しました。

なにはともあれ「消える」のは、自分にとっても周りにとっても幸せでないのだよな。今の自分が精神衛生的に元気だから言えるけど。などなど。あと2日働いたら旅行なのでがんばろう。ごきげんよう

ホタルイカで春を思い出すはなし

数日ぶりに暖かくなったと思ったら、花粉は猛威をふるいはじめるし(くしゃみと涙が止まらない)、急に仲の良い先輩が退職するっていう話を聞いてしまうし、春ですね。

小さい頃から新しい物好きの私は、新しい出会いもあるし色んな新品が手に入る春が大好きでした。中1まで「春=ステキなもの」と信じてやまなかったのに、中2になって最初の国語の授業で、世の中みんながみんな、春になると幸せになるわけではないらしいと聞いて割に衝撃を受けました。

詩「春に」

春ってエネルギーを与えてくれるけど、それが必ずしもプラスのエネルギーではなく、悲しみや寂しさなどマイナスの方向にも向かっているのでは、というのが当時の国語の先生のお話でした。未だに全て飲み込みきれているわけではないものの、「自分と人が同じものを見て違う感性を持ちうる」ということは20数年かけてようやく、じわじわ分かってきているような気もします。どうしても、自分のなかに存在する「ある程度想像の範囲内に収まる他人のパターン」をもとに他人を見たり自分の動きを見たりしがちで、そこから脱却したいなというのが最近仕事をしながら思う。毎日帰宅後にブログを書いているせいでこういう内省的なことばかり書いててバリエーションがないなあ自分・・・とりあえず、身体の調子的にも精神的にも冴えない気持ちになりつつ、これが春の訪れに感じられている自分の受け取り方の変化に、興味深さを感じているところです。

 

完全に話は変わるのですが、先週いっぱいイカが食べたくて食べたくてどうしようもない衝動にかられてしまい、週末に普段と違うスーパーまで遠征しました(最寄りのスーパーは海鮮系のラインナップが貧弱…)。そして見つけてしまったのですホタルイカ。一昨年も思っていたのですが、東京で売られているホタルイカって小さくないですか、私の地元(兵庫県)では物価のせいか立地のせいか、もっと安くたくさん大粒のものが手に入るのですが…など小言をいいつつ買って食べちゃいましたホタルイカ。こうやって季節を感じる食材が割と好きです。春は少しエグみのあるものを食べて身体の毒素を出すんだよ、という教えのもと、幼少期から春はつくし採集に駆り出されていました。ああ〜菜の花の辛子和えとか食べたい気分になってきた。そんなことを思っていたら、ベタに春を感じる曲が聞きたくなりました。

www.youtube.com

 

そしてそして。私と同じく、はせさんにブログで言及してもらった話をさきほど読んで「良いな〜」と思いました。袖振り合うも多少の縁かしら、と思って紹介します。わたしも自分が書いたものについての感想を読んで、ほんのり温かい気持ちになったし、サムネイルに表示されている「桜色」の気持ちってすごく分かる。小さな瓶、っていう表現もすてき。こうやって水平に世界が広がっていくのがインターネットの面白いところ(って最近読んだ本 / インターネット的 (PHP文庫) に書いてあった、私もそうおもう)!ミスチルの「彩り」みたいにまわりまわるのですね。ちなみに私の場合、はせさんのブログを読んでいるとなんだか自己肯定感をもらえるし、同時に他人のことをもっと大切にできるひとになりたいとも思う〜

majyonan.hatenadiary.com

 

さて、ご飯も炊きあがったので昨日作ったイカ大根を食べようと思います。今日もだらだら書いてしまった。明日はお天気になるとよいですね、ごきげんよう

今ある当たり前は、昔の非当たり前

今日も寒かったので引きこもりがちな一日でした。本を読んで映画を見に行ったら一日が終わった…しかも映画見てる間に地震が来てやや焦りました。東京なのか私の住むエリアか、結構揺れることが多くて良くない地震耐性がついてしまいそう。

そうこうしながら二冊本を読みまして、全然関係ない本のつもりがシンクロして面白かったので、その話をしますね。

 最近わたしの中でブームな「おしゃれ」

おめかしの引力

おめかしの引力

 

 

 そして、職場の先輩がおすすめしていた「ビジョナリーワード」

未来は言葉でつくられる 突破する1行の戦略

未来は言葉でつくられる 突破する1行の戦略

 

 

最近ひさしぶりに見た「プラダを着た悪魔」で面白かったシーンに、冴えない主人公がファッション好きを小馬鹿にするシーンがあって、そこで編集長が語る「大衆のものになっているその青色のセーターは、このファッショントレンドの世界で流行ったものなのであって、この世界がなければあなたもそのセーターを着ることはなかったのよ」って吐き捨てるのが「うおおおおファッションの歴史かっこいい!!」って私が思うポイントなのでした。

って思っていたら同じシーンについて川上未映子が言及していて、同じようなものにヴィダル・サスーンの話があるとのことだった。今このご時世に当たり前のショートヘアーは、昔からあったものではなくサスーンが提案してトレンドとなり、その後当たり前のものとして今存在しているとのこと。女性のファッションも同様にココ・シャネルによって新しく作られ、そのおかげで今の私たちはコルセットから解放されているとのこと。ファッションとはただ布で自分を覆うということだけでなく、自己表現の一つのツールでもあると言える。このあたりは鷲田清一の本に詳しいですね。 

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

 

身にまとうものについて、私も私服だった中高のころは文字通り年がら年中ジーパン(それもスキニーパンツ)で過ごしていたことがある。今振り返ると、それは自分の女性性を受け入れられなかったことが原因にあるような。いまでも女の子女の子した服は苦手で着られないし、巻き髪とかばっちりメイクも苦手。

というのは一旦置いておいて、読んだ本の話。当たり前じゃなかったものが当たり前になるために、少し先の未来を言葉で示すことって大切というはなしで、その例としてココ・シャネルもヴィダル・サスーンも紹介されていた。女性は男性の庇護にあることが当たり前で、彼らの求めるスタイルにあることが当たり前とされていた時代もあった。今はそんな時代から脱却して、女性は自分が自力で生きていくことが比較的当たり前だし、ファッションも自分で選ぶことができる。こんなの当たり前だと思っていたし、そんな時代だからこそ悩ましい選択肢も多い、なんてちょっと文句もいいたい気分になっていたけれど、ことはそう簡単でもないようだ。

などなど。そうやって明日も自分の生活を自分で支えるため、出勤して世の中に自分のちからを還元して、少しずつ良い世の中にしていくのです。ごきげんよう

まだ見ぬ本と出会う方法

寒の戻りといいますか、昨日の暖かさがウソのような土曜日でした。「朝からしたいことだけしよう!」と思って、スタバでさくらラテを飲み春を感じ、さくっとヒトカラで歌い上げ、本屋をふらついた良い一日でした。移動しながらTwitterを見ていたら、「おすすめの本を紹介してください」っていう他人の投稿を見かけて、ああそういう本との出会い方って私あんまりしないかもな、と思ったのでつらつら書いてみます。

デートするなら本屋

本屋が好き。フロアの多いところなら、一日中本屋をうろついていられる。知的好奇心を刺激されるのもあるし、世の中こんなにいろんなカテゴリの本があることに驚きもするし、いままであまり知らなかった隣の領域を覗き見られるのがアマゾンとの違いのように思う。混んでいないのも良い。ビジネス街ならビジネス書、観光地ならご当地本、など土地柄が垣間見れるのも興味深い。新書が揃っているお店は、「意外とこの辺知的なんだな」ってなる。文庫本のPOPが多いお店は、本好きがいっぱい働いてるのかなって思う。本の匂いが好きだからずっといられるけど、だからといって必ず本を買うわけでもない。たまに数冊どかっと買ってしまう時は衝動買いだから、もしかしてストレスたまってるのかな自分?とも思う。ブックカバーが好きなお店で本を買うのは楽しい。こだわりポイントは我ながらわからないけど、デザインとか紙質が気になるのかも。たとえば、紀伊国屋のカバーは好きだけど、ジュンクはあんまり好きじゃない。ブックファーストのカバーは、前のより今のが好き。

ちなみに、そのくらい本屋とか本が好きなので、まだあまり知らない相手とデートするなら、ディズニーよりも本屋かも。本を読む人かどうかで線引をしたいわけではなく、何に興味があるのか示したり、それを伝え合ったりできるのが良い。自分が思っていることや興味関心のあることをうまく形にして伝えられないので、本という媒体をとおして伝えられるのはすごく助けになる。同じように、相手の意外な面を見ることもできる。本屋で散歩してからカフェに移動して、お互いの選んだ本を交換して読み合いっこ、とかしたい。

まだ見ぬ本と出会うために

流行っているビジネス書はAmazonとか、そういうの好きな人達のSNS投稿でだいたい分かる。だから、その枠に入らない面白い本、新刊本じゃないけど良い本と出会うために本屋さんのSNSの投稿をフォローするようにしています。もちろん、本屋に行って紹介されている本を買うことなんて週1くらいはある(結構な頻度…)

そうやって知って最近読んでる本たち。

 

インターネット的 (PHP文庫)

インターネット的 (PHP文庫)

 

(絶対この本昔買ったのになくした…)

 

 最近はファッションに興味があるのでこのあたりも。

おめかしの引力

おめかしの引力

 

「おめかし」って言葉、「おしゃれ」よりなんだか上品で良い。 

買い物とわたし お伊勢丹より愛をこめて (文春文庫)

買い物とわたし お伊勢丹より愛をこめて (文春文庫)

 

恥ずかしながら色々知らなかったブランドをこの本で勉強しました。「あのよく見るアレ、そういう名前だったんだ」が割とあった…

 

ちなみに、情報収集の手段として見ているInstagram、実際に気になる投稿たちをあげるとこんな感じ。

www.instagram.com

www.instagram.com

Tumblrもときどき見に行く。

koinubooks.tumblr.com

 

あとは、人におすすめされた本は割にすぐ買ってすぐ読んじゃう。相手がわざわざおすすめしてくれるような本だから面白いだろうし、逆に考えると相手の最近思うことを知る手段になるようにも思う。最近気にしているであろうポイントに気が回っていると、それがほんの一部でも好印象につながるのでは?と思ったりして。

 そんな感じに以下2冊を買った。

超・箇条書き―――「10倍速く、魅力的に」伝える技術

超・箇条書き―――「10倍速く、魅力的に」伝える技術

 

 

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

 

 こうやってどっさり本を買って読んでしていたら、そりゃ引きこもりますよね…って急に冷静な気分になってきた。そしてこんなに私が好きな読書というもの、全ての人が楽しんでいるわけではないと最近知って衝撃を受けています。読書って文化のひとつだもんな…親にグチグチ言うこともあるけど、本好きに育ててくれたことには感謝しかない。

 

とか言いながら今日も今からお茶淹れてゆっくり読書タイムです。ごきげんよう

複雑な日なんだからフグを食べよう

ステキな花金に愉快な会社のメンバーで河豚を食べに行きました。前々から予定はしていたものの、私のメンターの先輩がタイトルどおり愉快なフレーズを言っていて楽しくなりました。

席が近いだけの所属も担当領域もバラバラな人たち5人の仲間に入れていただいて、悪意のない楽しい飲み会を過ごして楽しかったな〜。隣の隣の部署の人に「こんな娘だったらほしいよね」「メンターの先輩との組み合わせ、めっちゃいいよね」って言っていただけて、なんだかいろいろ許されたような気持ちになった。直接利害関係がないから、そういったふんわりした感想を持てるのかもしれない、とも思いつつ、こうやって自分の存在を見ている人がいてくれると思うと少し生きやすさもあります。

とかとか思いながら鼻歌歌ってたら、はせおやさいさんにブログで言及していただいるのに帰路で気づき、はあこんな日もあるもんですね、って思っている酔っぱらいな気分です。

hase0831.hatenablog.jp

自分の思ったことを他人にちゃんと届けられる人になりたいとは思っていたものの、こんなにすぐに書き手に届くと思わなかった。びっくりしつつ嬉しい気持ちです。なんの推敲もせず、ざーっと書いた雑な文章が人に読まれているのに今さら気がついて恥ずかしさもあります(とはいえ酔っぱらいなので今日はこのまま書きます)。

悔しがれる人は伸びる、と思っているので、応援しています!

 応援ありがとうございます!!冷静に考えて、悔しさって自分への期待の裏返しになっているのではないかと思います。自分はもっとできると自分で思っているのに、そのラインに至れていない自分を見つけて不甲斐ない気持ちになるんだろうな。最近「自分ってイケてないな」と時々思ってしまって、それもきっと「自分がありたい自分、あるべきだと思っている自分」と実際の自分に乖離があって生まれている現象によるもののようです。「自分は今のまま仕事をやっていれば良い評価をもらえる」「自分は頭がいいから努力なんてしなくても十分」「ありのままの私は魅力的なので、そのままでいれば誰かが見つけてくれる」なんてなんて。運もあるだろうけど、その運を高める努力はできていないし、そもそも他人から自分がよく見えると期待しすぎているのでは?って思って、結局「悔しさ」にぶち当たります。その壁を越えるのは自助努力かもしれないし、他人に頼って初めて越えられる壁なのかもしれない。勢いをつけたら意外に越えられるものかもしれない。「たら」「れば」に縛られれずに、自分の人生は自分が責任を持つというアタリマエのことができていないのが今の自分です。さてどうやって越えたものか!

ここまでの話とは全然関係ないのですが、今日ディック・ブルーナが逝去されたとのことで、私の子供時代も一つ終わりを迎えたようです。ふと忘れかけた頃に永遠が永遠でないと気付かされます。明日は久しぶりに本屋さんの絵本コーナーに行こうかな。

www.mirror.co.uk

みなさま、よい週末をお過ごしください!

「アヘン王国潜入記」感想

気がつけば2月も折り返しですね。明日はとてもあたたかくなるやらなんやら。今日は突然指の皮がかゆくなって固くなってなんだか違和感を感じます。季節の変わり目とかに時々なるんですけど、原因は何なんだろう。24年間日々を過ごしてきた身体だというのに、まだまだ分からないことだらけです。

最近鬱々しがちで、今日も鬱々してるっちゃしているのですが、そんなことしてても仕方ないので久しぶりに本の感想でも書いてみます。

 

アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

 

Kindle版がセールになっていたので買いました。この筆者、高野さんは私がよく読んでいるブログ(チェコ好きの日記)で最近知りました。当たり前じゃないことをさも当たり前のようにさらっと書いてしまうところに文才と逞しさを感じます。そして毎度のことながら以下ネタバレです。

このエッセイの舞台はミャンマーの山奥に住むワ族の居住地帯です。去年の夏に行ったミャンマー、こんなに奥深いところがあるなんて正直知らなかった。旅行が好きで、特に文化の違いを感じるところに面白さを感じていて、旅行の先々で「同じ顔形の人間なのに、住む場所が違うだけでここまで差ができるものか」って感想を毎度求めてしまう。なので、欧米とかのいかにも外国な国より、アジアとか南米とかの人種として似ている感じのある国に行くのが好きです。

アヘン中毒のあたりは、自分に今まで縁がなかったものとはいえ意味が分かるぞ、という描写でした。めっちゃしんどいんだけど、薬飲んだら元気になるから頑張っちゃって、そのあと薬効が切れて死ぬ、があまり疲れが取れず、の永遠ループの感じ。

全体通して「国家とは?」というテーマがあるように読み取れたのですが、この感覚って別にミャンマーに限った話ではなくて、陸路で隣の国とつながっているところなら感じざるを得ないと思う。政治上の分類と文化上の分類が一致しないところ。日本でも、他国と国境こそ接していないもの地方と都会ではまったく文化は違うし、テレビとか見ながら「ほんとに同じ国のはなし?」って気持ちは首都圏以外に住んでいる人は一度ならず抱えているはず。何をもってして、その国家に属しているといえるのかどうか。国家が正義の場合、国家に反するものは反正義。今のアメリカの移民を取り巻く環境も、国家がなんというかに振り回されるのは現象として否定出来ないのでは?はてその場合、どの国家の庇護に入るかは自分で決められるのか?民主主義とは?とかいう気持ち。

他の本も読んで、高野ワールドに頭が染まった結果、お金を稼ぐよりも生活を楽しむことに重きをおくことが羨ましすぎて、「生きるのに不自由しないためにお金がほしい」という気持ちになりました。

なんだか話が飛び飛びになってしまいましたが、このあたりで。今日行った本屋さんは、本の分類が私と違うかたちだったようで、あるはずの本が結局見つけられずもやっとしました。なんだか今日は一日通してそんな気分だ。