おいしさはやさしさ

旅行の日記とか独り言です

懐かしい人達に会った

今日はバレンタインですね!社会人になって初めてのバレンタインですが、チョコレート配ったり一緒に甘いもの食べたりして楽しかった。なかなか会社らしい雰囲気のない会社ですが、こういうところはちゃんとするんだな、って思ってなんだか意外でした。たまにはこういうのも悪くない。でもIT系の部署だからいかんせん男女比がおかしくて(女子:男子=1:5くらい)、ちょっと笑ってしまった。

そんな浮かれた日の夜は懐かしい顔ぶれでの飲み会でした。大学生のころに所属していた学生団体のメンバー十数人で集まって、わいわいがやがや話していました。ふと3つくらい思うことがあったので書き起こしておきます。

昔の自分との整合性を取ろうとする

久しぶりに会った人はそんなに多くなかったけど、この規模で集まると昔の自分を思い出してなんだか身動きが取れなくなる。その場その場で自分を変えている自覚はないけど、一定以上人数がいる場だと「この場でのワタクシ、かくあるべし」状態を何かしら意識してしまってるんだろうな、ってくらい今日は発言ができなかった。ただ、そうやって「作りたい」自分も意識的に作ったものではないから再現性はないし、じゃあ何のために他人向けの自分をつくりたいんだ、っていうはなしだし、その自分を作ったところで何があるんだ、って自分に言いたくなる。表現ができずに金縛りにあったみたいになっちゃうから、自分でその状況を見てすごく不自由だなって思ってしまった。金縛り状態から自分を救い出せない自分に悲しくなる。

自分の内面をどこまで出すか問題

「エンジニア気質を極めている」と言われるくらいには思考がそちらよりになっているらしい(?)。自分の内面について意識的になりすぎて、今までうまくやれていた飲み会コミュニケーションも下手くそになっているなあと思う。あと純粋に当時より共通の話題がないから、今の自分について話すしかなく、その話すネタもみんなが楽しめるものでないといけない→仕事か恋愛の話になりがち…そして恋愛ネタが自分のなかでタブーすぎて何も話すことないという心境…一周回って、周りの人にあえて知らせたい話もないし、飲み会って人のことそこまで掘り下げて聞きたいモードにならないし、とかいう自分に閉じるモードになってしまいがちな最近。はーくさくさする。

関西のコミュニケーション

東京生活ものべ2年弱くらいになったのですが、コミュニケーションのとり方が中途半端に関西から東京?標準?文化にシフトしてきているなーと感じた。自虐ネタってこっちだとあんまり受けない(どころか若干引かれる)んだけど、今日は久々にそういう笑いがあった。やりすぎはいじめみたいになる難しいラインだろうけど、本人が良かれと思ってやっているボケはちゃんと拾っていきたいなーと思いました。あと自分が笑いを取りに行くときに、自分は面白いポイントをうまくつかめないという自覚があるので、あえてこっちの笑いを取りに行きがち。標準文化圏だと出しづらいタイプの笑いだけど、関西の笑いも好きだからちゃんと忘れずにいたいなーと思いました。

 

懐かしい空気に触れて嬉しかったけど、なんだか途中から一人になりたくて仕方なくて、そんなことを思っちゃってる自分に「もっと楽しめよ」と言いたくて言えない、なんだかもどかしい飲み会でした。よく寝て元気になろう。

自分の感情を無視しない

今週もやってきました月曜日。頭のギアがうまく入らず作業ばかりしていたけど、それもまた調子…

 

読みまして。

www.nakahara-lab.net

最近、自分について知りたいなと意識的になってみて、「自分があまりに自分の感情に無頓着」であることに気が付きました。特に、負の感情を感じないようにしているように感じます。そんなことを考えながら振り返ってみると、小さい頃からよく泣く子と言われていたこと、自分でもそう思っていたこともなんだか違って見えてくる。いい大人になった今でもたまに泣きそうになることがあって、どういうときなんだろうかと考えてみると「自分の思っていることを他人に伝えようとするとき」なのでした。それが大したことでなくても、怒られたときでなくても泣けてくる。なぜ?と記憶を紐解くと、小さい頃に怒られていたときが思い出される。「どう思っているの?」っていう言葉を親に投げられるのって基本怒られているときで、しかもどう答えても怒られていたんだよな。何を思って何を伝えても、どれだけロジカルに自分の正しさを主張しても、親の気が済むまでは怒られていた。私はただ泣きべそをかくしかなくて、そりゃ思いを伝えるのは苦しいことだし、言いたいことも言えなくなっちゃうよ〜、と冷静に思う。最近そんな自分に気づけたので、言いたいことを言っても怒られないという当たり前の環境のもと、ちゃんと主張できるようになりたい日々であります。

そこでこの記事を読みまして、せっかくなので昨日見た映画を振り返ってみる(ネタバレします)。

hitori-movie.com

事前情報は、タイトルと映画好きな友人のおすすめコメントだけ、という状態で見に行ったけど、このタイトルとイメージ画でだいたいのストーリーで想像はつきますね。独り暮らしのおじさんが、周りの人たちとの関わりで丸くなり幸せになる話。そのとおりです。ただ、それだけの映画なのにやたら心揺さぶられるのでした…

どうして心を揺さぶられたのか、考えてみると自分のこれからの人生を思わずにいられないからかもしれない。いま東京で独り暮らしをしていて、このまま数十年すぎるとしたら、どう考えても私の人生で関わりを持つ人なんてそう多くない。そんなときに、おせっかいにも自分の生活に踏み込んできてくれる人なんているんだろうか?とふと不安になりました。頑固おじさんのようなオーヴェも、大事なパートナーのソーニャに出会い(脱線しますがソーニャがとってもステキ!ショートヘアーとルージュが似合って、常に太陽のような明るさで!そんな女性になりたいなって映画見ながら何度も思った)、実は一人で生きていたわけじゃないんだ、って思ったりして、すごいなって思って。パルヴァネも陽気そうに見えて、絶対いままでに人生苦労してきてるだろうし、それを乗り越えてこれだけ他人に構えるのはもはや格好いい。出て来る人みんながそれぞれの役割を持って生きている様子がまぶしくて、それが今の自分にはないような気がして羨ましくて泣けてしまいました。感動を伝えたい割に感想がチープで悲しい…

自分には大問題なのに他人からすれば全然どうでもいいことだってあるし(あいにく私も車のブランドにこだわりはない)、子どもと接するには普段出さないなりきり部分も出さなきゃいけない場合だってあるし、自分が大切にしている人を失う辛い経験から人は逃れられないし、でもそんなときにそばにいてくれる人がいる人生がいいな、って思って温かい気持ちになって帰りました。映画見ながらいろいろ思った気がするけど、言葉にするとこれだけにしかならない表現力のたりなさに気がついて、ああもっと自分が思ったことを人に伝えられるようになりたい、自分が自分を分からないのに他人に自分を分かってもらえる訳がない、って思っているところです。

 

どうでも良いことですが、芦田愛菜ちゃんが中高一貫女子校に合格したと聞き、「ようこそこちらの世界へ」みたいな気持ちになっています。

今週は半ばから暖かくなるらしい〜花粉は怖いけど春はうれしいナア〜

生きるって大変だけどすばらしい、きっと

寒い寒い日曜日。
本を読んだり映画を見たりして過ごしました。

すばらしい日々 (幻冬舎文庫)

すばらしい日々 (幻冬舎文庫)

hitori-movie.com


どちらも、ストーリーとしては単調で、でも起こる出来事は心を揺さぶるもので、泣いたり笑ったり忙しかった。でも、これからの毎日も生きようって思える作品でした。
買いたかった本も揃ったし、二月後半も頑張ろう~

分かるユーモアとそうじゃないユーモア

金曜日でした。会議もなにもない金曜日!一人でやりたい作業だけをできて非常に楽しかった。久しぶりに人とまったり話したりして、なんとなく充足感を覚えた。そんな会話のなかで気づいたのだけど、周りの人のなかに、たまにクリティカルヒットする人がいる。ふわっと思ったことなのでまとまりもないですが書きますね。

私が人と話しててヒットするかんじ、たぶん2パターンくらいある。性格的に似ているな、という人と、物事の捉え方が似ているな、という人。両方かぶっている人と話しているととても楽しい、けど似ているがゆえに盛り上がらなかったり視野が狭くなったりするように思う。性格的に似ている人は、話していてとても楽。ただ、わたしはあまり感情の起伏が見えないらしいのですが、同じパターンの人にはお互い伝わり合っているような気がする・・・気がするだけかもしれないけど・・・でも周りの人には伝わらないんだよな・・・おもしろいな・・・そして物事の捉え方が似てる人はなんかわかんないけどわかる。これも面白いんだなー実際に相手も似てると思ってるかどうかわかんないけど!相手に確かめたことなし・・・相手の頭の中をトレースしているように分かったりして面白い〜雑感だけど、この「モノの捉え方が分かる分からない」は性別というよりも過去に過ごしてきた環境に影響を受けるように思う。私が女子校出身のせいか、性別が同じである共学女子よりも男子校出身の人の男の人が考える思考プロセスの方が分かる気がする。。。

そしてユーモアってこのあたりの癖というかセンスが出るような気がしていて、私は「自分が好きなものが好き」「自分がツボったものしかSNSで発信しないから、逆に自分のSNSを振り返ったら自分の好きなものしかタイムラインにない」という感じなのですが、そのつもりでSNSを見ていると同じ気持ちで使っている人が結構分かる。 自分語り用にSNSを使うのではなくて、自分がおもしろいと思うものを人に伝えたくて、その内容から自分を知ってもらいたくて使っている感じがする。あとTwitterのお気に入りも、見返すと自分が好きなものしか入ってなくて好きすぎて割と何度も読み返している。結局、自分が分かるのは自分だけで、他人はうまく自分領域とベン図がかぶっている場合しか分かり合えないんだろうな〜〜〜とか思ったりする。あと、自分のなかにある「他人にドヤりたい気持ち」のせいで、人のどやりたい気持ちも分かってしまうし、その気持ちがから回っているのも見えてしまう(そして自分も逆にバレてたりするんだろうな・・・)

ちなむと、大学生時代のバイトで個別指導塾の講師をしていたのだけど、国語の論述で「この人がいままで読んできた本の量」が分かるな〜と思った。純粋に言い回しのパターンとか漢字を書ける書けないもあるけれど、言葉の引き出しというか、センス的なものがにじみ出たりしていた。ただこれって国語に限った話ではなくて、音楽のセンスとかファッションセンスについても「逆もまた然り」なんだろうな〜

言わんとすることがバラバラでわかりにくいものの、そんな所感を抱えた金曜日でした。

デザインも言語の一つだと思う

最近暖かいな〜と油断していたら、突然の寒さで驚く木曜日です。部屋が寒すぎて、暖房が効いていないんじゃないかと思った。雪も降ったり止んだりしていて、すっきりしないお天気です。

そんな一日、今日はやるべき仕事を終え、早めに帰ってきたのですが特に書きたいことも思い浮かばない。いろいろ考えちゃうモードの日は、朝から複数トピックをエンジン全開で考えて数日間それを続けるのですが、しかもそれをほぼ日手帳に書く暇や元気もなく、熱が冷めてきた頃に思い出して書き留めようとするも、熱がさめたので思ったよりスカスカなことしか書けない、みたいな日は一ヶ月に一度くらいあるのですが。

思い返せば、昨日親が家に来たことが結構なストレスだったので、そこからの解放としてエネルギーが足りていないということかもしれない。仕事で「うまく進められない」葛藤から脱出したのも、心がスッキリしている理由かもしれない。それとも、単純に今日人と取ったコミュニケーションが少なかったので、特に何かを考えるきっかけがなかっただけかもしれない。

などなど書いていたらちょっと書きたいことを思い出した。

デザインは言語の一つだと思う

という話。

語学フリーク

急に過去の話になりますが、私が受験勉強のときに一番好きだった科目は英語でした。といっても、センター試験の最初のアクセントとか文法ではなく、英語ができることで得られる情報が広がることや、英語の文法の裏に隠れている思考プロセスの違い・価値観の違いが見られることが私にとって刺激的だったように思います。当時はそんなに細かく「英語のどこが好きか」がわからなかったものの、とりあえず語学好きになった私は、その後中国語を大学で履修し、スペイン語とフランス語をラジオでちょっとかじり、ハングルを読めるようになったり、という言語フリークになりました。

全部「ちょっとかじっただけ」ではあるものの、言語を知ることで他者を知ったり文化の違いを知ったり、毎日過ごしているだけでも自分ごとだと思えるニュースが増えたり、という日々の変化がありました。ただ、「ペラペラ話せるようになる」ほどに頑張ったわけでもなく、自分の興味関心が続いている間だけ情報摂取する、ということを続けていました。その勉強は時々旅行中などに発揮され、韓国旅行で時々ハングルを読めたり、南米旅行で食事の注文だけできたり、中国でも買い物や電車の乗り換えができるようになったり・・・

高校生のころに家族旅行で行った中国旅行では、周りの人たちが話している音がノイズにしか聞こえず、帰国後に耳に入るノイズが全て中国語に聞こえた思い出があります。それも、中国語を勉強してからは解消され、3週間北京で過ごしたあとに帰国してもちゃんとノイズはノイズと認識できるようになりました。少しでも「意味の分かる塊」があれば、霧が晴れることがある、と知る経験でした。

プログラミング言語と出会う

時は経って2年前、人づてにベンチャー企業インターンをすることになり、今まで人生で出会うことのなかった「プログラマー」という職種の人を初めて現実に見ました。よくわからないけど黒い画面に向き合って、やたらインデントの入った画面を見て感動した記憶があります。

せっかくこんな環境にいるんだし!と思ったものの、プログラミングって何から手をつければよいか分からず、アマゾンで評価の良かったPHPの学習書を買いました。というもののまだまだ何のことか分からず…ドットインストールがわかりやすいと聞けばビデオをちまちま見て、Progateというサイトを知ってポチポチ作業をするも、結局何がしたいのか分からず、結局ちょっとかじって放置をしてしまいました。

とはいえ分からないのが悔しくて、あと自分は地頭はあるはずなので無理やり頑張ればプログラミングくらいできるのでは、と思ったりして迎えました就職活動。IT系の会社で働けば身につくのでは、と思い無事に内定が出た会社は3ヶ月のプログラミング研修から社会人スタートという環境でした。有り難いことに無理やりプログラミングをする場を与えられました。

するとハマることハマること。システムとはすなわち世の中の現象をコードで作るということなので、今までもやっとしていた説明がコードでパキパキ分けて説明でいる快感に。とはいえ、思考のタイプ的にプログラマーは向いていないと思うようになり、逆に「システムでできることを説明できるようになろう」という新しいステップに移りました。

ここ1年でいろいろと頭の中がクリアに見えるようになってきたのは、自分について考える時間が増えたことはもちろん、プログラミングの考え方を知ってプロセスを分けることができるようになったことも原因としてあるように思います。

UXデザインの部署に配属される

そんなプログラミング研修を終えて配属されたのは、UXデザインという、Webサイト・アプリの向こうにいる人のために、サイトやアプリを使いやすくすることを目指す部署でした。そこでいまぶつかっている壁があり、どうやって越えられるのか最近悶々と考えていたのですが、最近ちょっと分かってきたな!というのが言いたいことです。

というのも、デザインを決めるためには、図面として現れる内容を言語化して伝えることが必須なのです。もやっと「こんな感じ」というイメージを描いて伝えても、何を表現したくてそうなっているのか分かってもらえない。ボタン1個を追加したいだけなのに、隙間に適当に置いたら何故か「ありえない」と言われる(一ヶ月前の私)。意味わかんなすぎて、「意味わかんない!」と思っていたのですが、この感覚何かに似ているな〜と思って思い出したのが、先の中国旅行のことでした。

結局、その場に存在しているものが何であるか認知できていない(=言語をノイズとしか認識していない)というのが苦しさだったように思います。人間は自分が分かるだけしか他人を理解できないので、自分が作りたいイメージのポイントを理解できない分他人にも伝えられないし分かってもらえない、そしてまた逆も然り。

とはいえ、プログラミング言語も言語の一つなように、デザインの言語も言語の一つだと思っています。ちょっと違う点をあげるとすれば、今まで無意識にわかっているつもりだったことが、実は分かっていないと認める努力が必要なところ。あと、学習体系がまとまっておらず(私が知らないだけかも)、どういうステップを踏むべきか道を歩みかねているところ。

きっと、今まで勉強してきた色んな言語と同じように、デザインが分かるようになったら世の中がもっとクリアに見えるはず。そんなことを思ったら、すごくデザインを勉強したくなってきました。

 

そんなことを思った早帰りの平日でした。今日は温かいミルクティーを飲んで寝ます。

親が家に来るのが本当に嫌

水曜日です。最近ネガティブですね…

今日は親が家に来ます。東京出張の宿らしいです。友だちが家に来るのはそんなに嫌じゃないのですが、親が来るとなるとすごくストレスです。散々今までの暮らしを見てもらっておいて、親不孝者だと思われても仕方ないですが、心がざわざわします。人生でこんなに嫌なことあまりないように思います。

たぶん、自分が自分のアイデンティティを保つために作っている環境に入ってこられるのが嫌なんだろうなー。

六百デザインの「嘘六百」: 時折綴る「子供にゲームをさせよ論」のコト

これ読みながら、「そうそう」って思ってます。では。